未来クリエイティブとは『タマシイの対談』である!
『未来クリエイティブ』とは 駆け出しのアニメーション作家である山元隼一が
既に業界で活躍中の諸先輩方にドドドドーンと胸をお借りする体当たり型対談企画である…!
記念すべき第1回はななな、なんと!
代表作『世界の中心で、愛をさけぶ(2001年/小学館)』の発行部数が国内単行本最多記録だという小説家の片山恭一さんにお話を伺ってきた!
まさに物語作りの大先輩である片山さんに聞いた『クリエイティブライフ』とは・・・!?
もくじ
第一回 「物語の作り方」 片山恭一さん(小説家)
1.ストーリーの紡ぎ方   2.優しいものの見方   3.自分らしく生きる事

1.ストーリーの紡ぎ方


山元隼一(以下『山』)
今回お聞きしたいことが2つありまして、一つがアニメーションを作ってるとストーリーの作り方っていうのが自分なりには工夫はしているんですけれども、映画とかの見よう見真似でやってしまっているところが多いんです。絵のほうをやっちゃってどうしてもおろそかになってしまうというか。
もう一つがパソコンに慣れ親しんだデジタルネイティブなクリエイターさんが多数出てきて、彼らは映像作品や音楽をyoutubeやニコニコ動画で作品をたくさん発表していろんなコンペティションで受賞するような作品もたくさん出てきているんです。それで学生時代は作っていれるんですが、社会に出て続けていくことがなかなかできないというところにぶつかっていまして。それで、小説家という昔からある職業が一つのロールモデルになるんじゃないかなぁと思いまして、作家活動を続けて行く勇気だったり方法をお聞きしたいなと思ってます。

片山恭一さん(以下『片』)
それは僕のほうが聞きたい話ですね。両方とも。
僕なんかもやっぱり同じ問題に突き当たってて、最初の話で言うと、ストーリーって何なんだろう。それは小説にもあるし、映画にもあるし、アニメにもあるんだけれども、なんていうか、どのストーリーを見てもどこかですでに読んだことがある、見たことがあるとかね、だからストーリーを作るっていうか、ストーリーで人を惹きつけるっていうことが、とても難しくなっていると思うんですよね。


そうですね。


かつては一人ひとりの人間の体験に非常に差があって、例えば一昔の日本を考えると海外に行った人さえ少なかったわけですよね。ほとんど自分が生まれた村で農業をして一生を終えるっていう人が多かったりとか、あるいは下町の工場で働いて一生を終えたりとか、非常に狭い世界で一人ひとり人間が生きていて、だから個人の経験に非常に差があったと思うんですね。その中で他の人に比べて、特異な経験をした人っていうのがストーリーを作り出す上で言うと、かなり優位な立場にあって、そういう人たちがいろんなストーリーを紡いでいたっていう時代があったと思うんです。
恋愛にしてもみんなが自由に恋愛に出来る時代は、つい最近までなかったわけでしょ。ある特殊な人っていうか、親が資産家であるとかね、そういう人たちが自由恋愛をする、外国に留学する。そういう特権的な体験をもとにして小説を書いていたという面があるわけです。森鴎外にしても夏目漱石にしても、あの時代の人たちってほとんどそうだったと思うんですね。太宰治にしても、やっぱりある種の特権階級っていうか。
しかし、今の日本社会を見ると、そういう意味での差異っていうのがなくなってしまって、もう個人が一生の間に経験することって、量的にも質的にも変わらなくなってしまっていると思うんです。


情報共有されている部分が多いですもんね。一元化に進んでいるというか。


そうだと思うんですね。そういう中でストーリーを作ろうとすると、誰が作っても同じようなものしか出来ない。随分奇抜なストーリーを作ったと思っても、だいたい誰でも考えつくような内容だったりとか。


ストーリーを作るときに大塚英志さんの話で面白いなって思ったのが、まず最初に欠如から始まって、例えば主人公が記憶を喪失してたり、物語っていうのが回復に向かうっていうドライバーが働くというものです。
それが成長や自己実現的なものを表現してると思うんですけど、片山さんの小説でも大事な人を失ってそこでの主人公がどう生きるかっていう人の生き様だったりかっこいいなと思うんです。
そういう物語を動かす根本的なドライバーは敷いておいて、なるべく変な題材や人がモチーフに選ばないような例えば。。ゴキブリだとかみんなが嫌だなとかどうしようもないと思ってるものだったりを使ってみたりとか、そういうものをお姫様を救うだとか何千年も昔から語られてきた王道のストーリーのフォーマットにねじ込むと対比だったりそれによるコントラストが生まれて結果的にストーリーが新しく見えつつ、着地した物語になるのかなぁと思って、というか信じてやってるんですけど、それだけじゃいかんだろうと思ってまして。


なるほど。アニメの場合はそういう方法も効果的かもしれないですね。


ビジュアル情報があるんで、そこらへんは頼りやすいというか。。でも、他にないかなぁと思ってまして(笑)


僕らはどうしても文学的な考え方をするんですけれども、ストーリーを作る場合に、それを書いている人の実感から離れてしまうと、ストーリーっていうのは力を失うっていう気がするんですね。
言い方を変えると、その人が自分の人生観なり世界観なりを、どこまで突き詰めているかですね。
それによって作品の質が規定されてくる部分というのが、結構大きいと思うんです。だからといって、自分の人生観や世界観をそのまま書いてしまっては小説にならない。やはりストーリーとして、できれば面白いストーリーとして提供したいわけです。そこが難しいところですよね。


僕は隠すことで、見てる人に想像させる手法に頼ることが多くて、ある種伝える事から逃げてるところが大きいんですよね。経験的にも20年そこそこしかないですし。
どうしても、粗が出ちゃうんで、見てる人の記憶を利用させてもらうというかそれで補完させてもらうことが多いんですね。個人アニメーションって7分とかしか作れない短距離走みたいなものなんで、そういう手法をとってるところはありますね。それで、観てる人に感情移入してもらえる隙を作るというか。小説の場合だとその人がその世界を生きてるぞっていうところにまでロジックを突き詰める必要がありますよね。


そうですね、情報量が全然違うからですね。小説の場合だと、一つの情報を伝達するために、かなり書き込まないといけないんです。ある主人公に実在感をもたすためには、言葉で書いていかなければならないわけで、そこがまどろっこしいところです。アニメの場合だと、キャラクターデザインだったり、一瞬でこの人がこういう人なんだって伝える瞬発力みたいなのはあるし、強いかもしれませんね。7分とか8分だと大変だなぁ。


そうですねえ。キャラのビジュアル情報だけじゃなくてそのキャラクターの部屋とかを出せる場合は、置いてあるもののデザインとかである程度は観てる人に刷り込むことは出来ますね。この人はこういう風にして物を配置しててこういう物を集めているのかみたいな事は考えたりしますね。部屋ってやっぱりその人の内面を表現するものだと思うので。
片山さんの場合だと、毎回多彩なキャラクター、主人公が出てくるわけなんですが、
それで一人称のスタイルで書かれることが多いと思うんですけど、その人のある種の履歴があって、事象を経て、変化していく。あ、この人本当に生きてるんじゃないかと思える瞬間が幾度も読む中でありまして、そういうキャラクター作りってどうされてるのかなぁって。物語を作る前の段階ですよね。黒澤明とかは七人の侍の場合に限ってはノート一冊とかに一人のキャラクターについてメモしてたらしいんですけど。
情報量があんだけ多い中で、どうキャラクターを最初と整合性をとりながら書いて行くのかなぁと。何百ページも書くわけですし。


人によって違うと思うんですが、僕の場合はわりと漠然としたイメージで書いて行くことが多いですね。
その人物のキャラクターを掴みきれずに書くことって、結構あるんです。書き進むうちに生きてくるみたいなこともあったりして、だから僕らの場合だったら現代小説ですから、常識的に無理のない実在の自分物を配するわけですよね。かなり大雑把に、この人は大学の先生とか、この人は主婦とか、この人はサラリーマンとか。
だいたいの年齢を決めて……。あと、日本人の名前だったら、その名前から喚起されるイメージってありますよね。そういうところから決めていって、少しずつ全体像に至るというか、この人物にはこういうこと喋らせようとか、この人物はこういう役割を担わそうとか、全体の大まかな設定はするんですけどね。
最初から全部をかっちり決めているわけじゃない。小説ってのはそこらへん曖昧にして書けるところがあるんです。


そうなんですか!!?


いや、本当はそういうやり方ってまずいのかもしれないけど。黒澤明の『七人の侍』だと、実際に七人の役者にどういう鎧を着せるか、髪型はどうか、髭はどうするかとか、細部まできちんと決めてから撮影したと思うんです。曖昧なところを残していたら、映画ってのは出来ないところがあるでしょう。
小説の場合だとなんとなく雰囲気を感じさせればいいというところがあって。人物の容姿とか具体的な描写はなしでも済ますことができる。台詞によってキャラクターのイメージとかは作られて行くところがあって、その辺が映画とかアニメーションとかビジュアルな表現と違うところかもしれませんね。
そのかわり、台詞なんかが大きな意味を持ってくる気がしますね。


さきほど、名前っていうお話があったと思うんですけど、片山さんの小説でカヲルとか香澄だったり、香り系のヒロインがいるなってイメージがあったんですけど。


ははは(笑)それは多分無意識でやってると思いますね(笑)


名前では明確に示していないんですけど、ふわっとこちら側でイメージさせる部分ってあるかもしれないですね。読む人のそれぞれのカヲルがいて割と一人歩きしてるイメージなのかなぁと。


それはありますね。
自分が書いて行く上でのガイドラインとして名前を設定することってあるんですよね。
僕の一番新しい小説には五人の主要な登場人物が出てくるんですけれども、この五人にそれぞれ色の名前をつけたんですね。一応、陰陽五行説に則りまして青、赤、黄、黒、白。青は青柳とか、赤は赤沼とか、黒は黒岩、白は白江。黄色が困ってね。日本人で黄色の名前って思い付かない。苦し紛れに中国系の名前で黄(ファン)って読ませて、その人は中国系にしたんですけど。主人公も五人とかになると、それぞれの描き分けが難しくなってきて、うんと違う職業にするとか、自分のなかではっきりコントラストをつけないと、誰が誰だかわからなくなってしまうんですね。


自分の一部分だったりとかキャラクターって反映されてることってよくあるじゃないですか。
連載初めの漫画家とかってたとえば、ナルトにしてもワンピースにしてもその人の「俺の漫画家道を始めるんだ!」っていう気概がそのまま主人公に反映されてたりとか。結構彷彿させるキャラクターが出てくると思うんですよね。


一作につき一人の主人公だといいんですけどね。三人くらい主要な人物が出てきて、それぞれに描き分けるとなると、どれも自分に似てしまうんですね。なんか三人とも同じこと言ってて、みんな作者の分身みたいな。作者からあまり離れた人間ってのは書けないですからね。
これ どうも似たようなことを、違う言い方してるだけなんじゃないだろうかって。
だからそれを避けるために、女性の主人公を一人入れるとか、うんと自分から遠いところにいる人物を設定するとか。あるいは自分とは全然関係ないような、自分が全然知らないような職業に就いている人物にするとか。自分とはできるだけ遠いところに設定しとかないと、どんどん近付いてきてしまうんです。


キャラの抱えてる哲学的なところはどうしても似通ってしまいますもんね。
言い回しでは対比付けられるかもしれないけど。


そうなんですよ。アニメとか映画だったら、何人かの共同脚本とかありうるけど、小説の場合は原則として一人でしょう。そうすると一人の人間が考えることって、たかが知れているんですね。キャパシティが限られているというか。その難しさってのはありますね。


実写だと役者さんの、その人の生きてきた履歴が組み合わさるんで、言い方の間だったり、その人の特性が出たりしますよね。映画だったら監督が表現しようとしたとき、何十パーセントかはその人が担う部分は本当におおいですもんね。押井さんの映画だったら、登場人物みんな押井守の代わりにウンチク喋ってる!って思うんですけど(笑)


先ほど言われていたように、キャラクターの一人をゴキブリにするとか、そういうやり方は小説や文学の場合でも有効かなって感じはしますね。そうしないと、世界が広がらないんですよね。結局、いくら舞台がパリです、ローマですといっても、そこで生きて喋って考えてる人間が作者の分身だから、どうしても小説の世界としてはある枠を破れないんですね。


現代小説だからやっぱりそうですよね。


そうなんです。だから主人公を猫にするとか、幽霊にするとか、そういう異次元のものをね。


僕はよくそれで逃げますねw ロボット出したりとか。一つ現実離れしたものを入れて、それで波紋を起こすというか、現実的な世界だけどそこに変人がいるというか。波紋を起こしてはいるけど、王道のストーリーフォーマットを持ち込むことでそれが正しく見える的な。


最初にお話しした、ストーリーが作りにくくなっている、つまり一人ひとりの体験が似通ったものになっているってことの、一つの打開の方法ではあると思うんですよね。そういう形でストーリーを紡ごうとしてるというか。これから増えてくるでしょうね、小説でもアニメでもそういう作り方が。そうでもしないと起伏が作れなくなっていると思うんです、物語に。


コントラストをつけないと、みんなあまりにも映像に観なれちゃってるのでなかなか作れないんですよね。みんなストーリーに関して肥えまくってますよね。。観てる人を展開などでどう裏切って行くかっていうのがなかなか難しいんだなぁと。


情報が多い、そしてたやすく手に入るというのが、表現する側にとっては非常にマイナスに働いている面が強いと思いますね。音楽なんか聞いていると、もうほんと今の若い人達って、すごく情報を持っていると思うんですよ。それこそ50年代の古いブルースから今のヒップホップまで全部自分の引き出しに入っている。そこからいろいろなものを取り出して、自分の作品にしていく。しかもコンピュータを使うでしょ。出来てくる音の感じが、みんな似通ったものになるんですね。たくさんのソースを使うほど。それよりも生ギター一本で歌う方が、よっぽど個性的だったりする。なんか不思議な時代になったなあという気がします。


ストーリーソースをみんながみんな割と似通ったところから持ってきちゃうんで、みんなが思いつく以外のところから持ってこないとダメなんだろうなっていうのは感じますね。


それが難しいんですよね。


それってその人の経験だったりとか今までの履歴だったりが変だと持ってきやすいんでしょうね。
僕は平凡な人生を歩んできた自信があるんですけど、安藤忠雄さんとかは建築家になる前は元プロボクサーだったし、うまく人とアイデンティティを差違化できるようにしてるとかするとだいぶ違うんでしょうね。
居心地の良いコミュニティにばかり属してるとダメだなと。もっといろんな人にお会いして経験とそれによる知恵をいただいていかないとなぁと思うんです。今はいくらでも深みにはまっていけるから、逆にそういうのは切り捨てちゃって視野がすごく狭くなる傾向もあるんじゃないかという気がします。自分がどんどん好きなところだけにアクセスしちゃえるんで、深みにはまっていくなぁと。


横の広がりだけ出来ても駄目だと思いますね。どうしても縦に、垂直に掘り進んでいく時間が必要なんでしょうね。


あ、それなんです!僕は押しピン型人間になりたいってよく言ってるんですけど、その広い知識と深い専門性、僕だったら今後それはアニメーションになると思うんですけどその強い針があって、あと全体的な視野があるとより押し込みやすいというか他のところから知恵なり知識をもってきて押し出すみたいな、そういった押しピン型人間になれたらなぁと。単純にジェネラリストになっちゃうとなぁと。押しピンで刺してブれないみたいな感じになりたいです。

片山恭一さん
1959年 愛知県宇和島市生まれ、福岡県在住。
九州大学農学部卒業。同大学院博士課程(農業経済学)中退。
86年に「気配」で文學界新人賞受賞。95年に「きみの知らないところで 世界は動く」で単行本デビュー。2001年『世界の中心で愛を叫ぶ』が 300万部を超えるベストセラー。
ほかの著書に『ジョンレノンを信じるな』『DNAに負けない心』 『満月の夜、モビイ•ディックが』『空のレンズ』『船泊まりまで』 『最後に咲く花』などがある。
山元隼一
アニメーション作家•映像ディレクター
1985年 福岡生まれ
九州大学 芸術工学部画像設計学科に入学。
同大学院芸術工学府デザインストラテジー専攻修士課程卒業。

在学中、オリジナルアニメーション『memory』『Anemone』などを制作。
ASIA GRAPH 第二部門、第三部門 最優秀作品賞
BACA-JA2009 最優秀作品賞
第十四回 アニメーション神戸デジタルクリエイターズアワード 最優秀賞など。
学生時代より受注制作を行い、現在はフリーランスとして活動中。
神戸市PRアニメーション「神戸と私」監督 、NHKワンセグ2ドラマ 「僕がセレブと結婚した方法」アニメーション制作 Chemistry 「period」PV アニメーション / デザインなどがある。

ホームページ http://falcon-one.net

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